教えは誰に向けるもの?
前々回は「子女名優」、前回は「反始慎終」について書きました。
「子女名優」とは、子どもは親の生活や心のあり方を映し出すという教えです。子どもに問題が起きたとき、子どもだけを責めるのではなく、親がまず自分自身の生活や接し方を振り返る。
一方、「反始慎終」では、自分の命の始まりである父母や祖先に思いを向けます。親を大切にし、自分が受け継いだ命をどう使い、どう生きるのかを考える。
この二つの教えを並べてみると、少し不思議なことに気づきます。
子どもが病気になったときには、親が自分を振り返る。
親が病気になったときには、子どもが自分を振り返る。
一見すると、矛盾しているようにも思えます。
では、親が子どもに、
「私が病気になったのは、あなたが親不孝だからだ」
と言い始めたらどうでしょう。
反対に、子どもが親に、
「私が病気になったのは、親であるあなたのせいだ」
と言い始めたらどうでしょう。
どちらも、教えを学んでいるようで、実は大切なことを忘れています。
教えは、相手を責めるためにあるのではありません。
自分自身を振り返るためにあるのです。
「子女名優」という言葉を親が自分に向ければ、「子どもを変えようとする前に、自分にできることはなかっただろうか」と考えることができます。
「反始慎終」という言葉を子どもが自分に向ければ、「親に求めるばかりではなく、自分は親を大切にしているだろうか」と考えることができます。
ところが、この矢印を相手に向けた瞬間、教えは人を責める道具に変わってしまいます。
これは、家庭だけの話ではありません。
勉強でも同じです。
子どもは、「先生の教え方が悪い」「親が勉強しろとうるさい」「問題が難しすぎる」と、自分以外に原因を求めることがあります。
私たち大人も、「本人にやる気がない」「言っても聞かない」と、子どもだけに原因を求めてしまうことがあります。
もちろん、本当に相手に問題があることもあります。何でも自分のせいにすればよいということではありません。
大切なのは、相手を責める前に、まず自分にできることを考えることです。
教えを相手に向けるのは簡単です。
「あなたが変わるべきだ」と言えば、自分は変わらなくて済みます。
しかし、相手を変えることはできません。
自分の言葉、自分の行動、自分の接し方なら、今日から変えることができます。
親には親の立場でできることがあります。
子どもには子どもの立場でできることがあります。
教師には教師の立場でできることがあります。
誰が悪いのかを決めるのではなく、それぞれが自分にできることを考え、行動する。
「子女名優」も「反始慎終」も、相手に突きつける言葉ではありません。
自分自身に問いかける言葉です。
教えの矢印は、相手ではなく自分に向ける。
そのとき初めて、学んだことが本当の意味で自分の生き方につながるのではないでしょうか。
